斜里岳 実話・逸話・裏話

斜里岳の成り立ち

斜里岳ができたのは今からおよそ25~28万年前。古斜里岳ともいうべき山が噴火し、溶岩を噴き出して斜里岳の原型が作られました。この時の斜里岳は、富士のような美しい山だと考えられます。その後に起こった噴火によって山頂に溶岩ドームが形成されました。こうしてできた山容を、雨風による長年の浸食が削り取り、さらに12万年前に屈斜路湖が噴火し堆積物を西側に積もらせ、1万年前には摩周火山が火山灰を南斜里岳南側に厚く堆積させました。

オンネヌプリ

斜里岳を、古来アイヌの人々はオンネヌプリ(年老いた山)と呼んでいました。和人が、この地に住みついたのは、比較的近年のころであり、長らく斜里岳と清里地区は、斜里アイヌと呼ばれる人々の勢力圏で、斜里川沿いに複数のコタンがありました。そして斜里岳はアイヌの人々の敬愛の対象であったといいます。清里町には神威という地域があります。ここはかつて、カムイ・ノミ・ウシ・イ・ビラ(いつでもそこで神に祈りを捧げるところ)といい、斜里岳に向かって祈りを捧げた場所であったといいます。現在も神威八幡神社が祭られています。なお斜里岳の斜里は、アイヌ語のサル(葦の生えているところ)がなまったものです。

松浦武四郎の冒険

明治以前にこの地方に足を踏み入れ、詳細な記録を残した和人に、幕末の探検家松浦武四郎がいます。武四郎は、1845(弘化2)年から6年にわたって当時の北海道を探検し、克明な記録を残して、北海道開拓に大きな足跡を残しました。知床近辺には何度も足をのばしていますが、特に1856(安政3)年には、斜里川をのぼり、斜里岳の麓に宿泊して、摩周湖を巡り、釧路方面にぬけています。そんな武四郎は斜里岳の姿を愛して、次のような詩を残しました。

「 斜里岳のやましう嵐の吹きかえて  稲の穂波のはやたてよかし」

龍神伝説

清里の開拓が本格化したのは明治の後半で、明治末から大正初期にかけて集落が形成され、1943(昭和18年)に斜里町・小清水町から上斜里町として分村、 1955年(昭和30)年、町制施行とともに清里村になりました。身一つで原生林に分け入り、田畑を切り開いた開拓者の土地であり、開拓の苦労が生々しく語り継がれています。 1932(昭和7)年は、雨の降らない年でした。始まったばかりの農業が、干ばつによって台無しになってしまったことを恐れた農民たちは、大きな藁の大蛇を作り、夜をかけて斜里岳に登り、山頂部の池にそれを沈めて、祈ったところ、たちまち雨が降り始め、農民たちは救われたといいます。それ以来、農民たちが大蛇を沈めた沼は竜神の池と呼ばれ、麓に龍神神社が建てられました。

初登頂

斜里岳の初登頂については諸説あります。 明治時代、開拓使の御雇外国人ライマンが1873(明治6年)、鉱物調査のおり斜里岳に登ったといいます。しかし、正規な記録としては、1928(昭和3)年3月27日、北海道大学山岳部の原忠平と中野征記が登ったのが最初です。原忠平は、初登頂の感激を次のように書き残しています。

私は今まで経験した事のないギツフェルグリュックを感じた。南北両側には氷に閉ざされて、果てしなく続く北洋があった。青空の下に輝く日光! 私たちの登って来た新しいシュッピツェやグラートは雪肌をみんなキラキラさせている。なんと申し分のない良い天気であろう。真青に輝く空を眺めながら、美味しい空気をいっぱいに吸い込むと、こいつはまったくたまらない。この力強い淡彩の自然が織りなす不可思議なアトモスフェーレに身も心も飽和してしまいそうだ。

翌1929(昭和4)年、同じく北大の渡辺成三とアーノルド・グブラーが、8月2日、夏季初登頂を成し遂げています。

日食観測

1936(昭和11)年6月19日、60年ぶりに皆既日食が見られました。日食は宇宙の神秘を探るものとして当時、天文学の最先端テーマに位置づけられていました。そのため、観測の最適地と見られた北海道には、欧米各国から170名もの学者、技術者が来道しました。このうち清里とその周辺にはイギリス・ケンブリッジ大学のストラットン博士を団長とする調査隊を筆頭に、東京理化学研究所観測隊、東京天文台観測隊、東北大学観測隊、東京大学観測隊が布陣しました。 まだ辺境の開拓地といった趣の清里に、これら観測班と報道陣などが大挙押し寄せたものですから、まちは開村依頼の大騒ぎになりました。 現在、下二股に残されたコンクリート製の建物跡は、このときの観測所跡であり、山頂にも観測所があって、1960年代まで姿をとどめていたといいます。こうした観測所の建設、観測機器の設置のため、現在主流となっている登山道、清里ルートの整備が一挙に進みました。清里ルートは現在下二股と上二股で、新旧両ルートに分かれていますが、この時同時に整備され、戦後、新道が現在の下二股の地点に下りていくよう切り替えられたため、新道と言われるようになったといいます。 さて、肝心の観測ですが、「まさに皆既日食に移らんとした瞬間、憎し妖雲に禍されて千載一遇のチャンスを失い、観測隊長ストラットン博士は、一時無念の形相凄く、天を呪い神を罵倒した」と当時の新聞は伝えたそうです。

斜里岳と絵画

その美しい山容によって、斜里岳は多くの画家に愛されてきました。 北海道を代表する山岳画家で1974年北海道文化賞を受賞した坂本直行の「十一月の斜里岳」は斜里岳の山肌をいっぱいに捉え、ダイナミックな作風からこの作家の代表作として位置づけられています。北海道の郊外に美術館ができた相原求一郎は、フランスのブルターニュやノルマンディー地方をテーマにした風景画で知られていますが、晩年北海道の山に魅せられ、道内10の山を描いて「北の十名山」として発表。もちろん斜里岳もその中に選ばれています。日本美術院評議員で、元東京芸術大学教授の後藤純男は、現代日本画を代表する作家ですが、87年作の「雪の斜里岳」を代表作として愛し、手元に置いています。風土会会員の小松明は画家から見た斜里岳の魅力を次のように言います。 「やはり斜里岳は冬がいい。真実そう思った。それも雪が深いだけ尚、画題になる。山が大きくそびえるより、麓に多くの家来を引きつれた斜里岳はやはり最高の女神だ。それにこの山には妙に色気がある。品格ある色気だ。多くを包み込む。母の懐にも似たやさしさもある。そしてあまり饒舌でない色気。私はこれが好きだ」(「一枚の繒」1998年4月号) 斜里町には、山の文芸誌「アルプ」の資料と斜里岳や知床の自然をテーマにした芸術作品を集めた北アルプ美術館があります。

斜里岳と文学

斜里岳の美しい山容が画家たちをとらえたように、小説もまた斜里岳に魅せられました。 斜里岳をテーマにしたもっとも古い小説は吉田十四雄の短編「幾山河」で、斜里岳の姿に励まされ、厳しい北の農業に取り組む農民小説です。串田孫一や深田久弥など斜里岳を舞台にした紀行文や、木下捷平の「斜里お白雪」(「小説現代」68年5月)のように物語の一部に登場するものは多くありますが、斜里岳全体のテーマとなった近年の作品には犬養智子の「斜里岳の見える家」(集英社文庫)があります。犬養智子といえば「女も七人の敵をもつ」などの著書で、女流の論客として知られていますが、ここでは本文と挿絵の両方を書いています。物語は、獣医で夫を亡くし一人娘をもつ母でもある霧生朝美とその仲間が、斜里岳の見える自然の中で、たくましく生きていくというもの。本の扉には次のような文があります。 「コンクリートの町の向こうに、みどりの大地がひろがっています。そこにはまだ、いじりまわされていない自然があり、人々は傷つけあわず生き生きと暮らしています。そんな土地へ行ってみたい人は、この本のページをめくってください。」

百名山

深田久弥がその不朽の名著「日本百名山」で斜里岳を取り上げなかったとしたら、斜里岳を登る人はいかばかりだったでしょうか。「日本百名山」の原稿となった深田久弥の登山はこんな具合でした。 1959 年8月20日、函館から急行「まりも」で16時間かけて釧路に着いた深田久弥と妻、そして小学校6年の次男は、ここで釧路山岳会のメンバーに迎えられる。翌日、深田久弥一家3名と釧路山岳会の2名、そして釧路で出会った早大生1名を加えた総勢6名は、釧路駅から釧網本線の清里駅へ。そこで清里町役場差し向けのジープに乗り換え、この2年前に作られたばかりの清岳荘で一泊。翌朝3時起き、まだ薄暗いうちに出発。旧道を通り、8時30分、山頂へ。あいにくの濃霧で、日蝕観測隊が残していった小屋で天候がかわるのを小一時間、待つものの、結局、濃霧の中を下山。往路は新道を通り、正午すぎに清岳荘に帰る。そして再びジープで清里駅に戻り、夜の10時、釧路着。その後、阿寒岳、羅臼岳とまわり、8月30日に帰路に着く。 また、百名山といえば、田中澄江の「花の百名山」(文藝春秋)も見落とせません。もちろん斜里岳は、40番目の名山として取り上げられています。田中澄江の方は、天候に恵まれたらしく次のように書き残しています。 「頂で海はいよいよひろくなり、島かげはいよいよ大きくなった。薄紅のタカネナデシコが海に向かって群生していて、あの島は日本の島、このナデシコだとよ叫びたくなった」。

 

※ご紹介したお話しの中には諸説あり事実と異なるものが含まれているかも知れません。